コラム~成蹊ラグビー

対抗戦グループとリーグ戦グループ

2016/11/17(木) 00:47

関東大学ラグビーには現在2つのグループが存在することは、少しラグビーに詳しい人であれば誰でも知っていることである


でも、何故そうなったのかをしっかりと説明できるかというと誰もが怪しくなる


そこで今回は、特に現役部員に対してその歴史と経緯を知っておいて欲しいという思いからコラムに載せることにした


明治32年に慶應義塾大学が日本で初めてラグビー部を創立、これを皮切りに日本全国の大学でラグビー部が続々と創部され、お互いに定期戦を行うようになり『対抗戦』という概念が出来上がった

ちなみに我成蹊大学は旧制高校時代の大正12年にラグビー部が設立され日本で8番目に古いラグビー部である


関東では、昭和3年より慶応・早稲田・明治・東京・立教の5大学による関東大学対抗戦というものが組織化され、太平洋戦争後の関東大学ラグビーは昭和21年11月23日による早慶戦により再開され、戦後復興と共に『新興大学』が徐々に台頭してきた

昭和32年より関東大学ラグビーの対戦形式は上位、下位の2部制や全大学間である一定の規定数こなさなくては順位対象とならない対抗戦方式など改正が繰り返されたが、昭和43年に現在の『対抗戦グループ』と『リーグ戦グループ』に分かれる形となった

この成立の裏には対抗戦形式に強く固執する伝統校と総当たり戦のリーグ形式を熱望する新興校との確執があったと言われている

昭和43年分裂時点において各リーグに所属していた大学は以下の通り

対抗戦グループ:早稲田・慶応・日体大・明治・立教・東京教育大(現筑波大)・東大・成蹊・成城・青山学院

リーグ戦グループ:法政・中央・日大・専修・東洋・国士舘・防衛大・大東文化大


昭和43年に分裂後昭和61年までの18年間、大東文化大学が優勝するまでリーグ戦グループから大学選手権優勝校が出て来ることはなく、人気実力ともに対抗戦グループの方が高かった


全国大学選手権に出場する関東代表校を決めるために、対抗戦・リーグ戦の全日程終了後に両グループの上位4校が『交流試合』という代表決定戦をたすき掛け方式で行い、勝利した4校が関東代表校として全国大学ラグビー選手権に出場する資格を得ていた(昭和43年?平成4年)


対抗戦グループはリーグ戦グループの様に総当たりではなかったので毎年順位を決めるために各大学の主務による順位決定会議が行われていたが、前年度成績上位6校の中から4校以上の対戦がないと順位決定対象校とはみなされなかったので平成3年度の成城大学の様に対抗戦で7勝1敗の成績を収めたにもかかわらず交流試合に出れなかったこともあったし、また、今では当たり前のように対戦している慶応対帝京の対抗戦はABグループに分かれるまで行われていなかった

平成9年に対抗戦グループはA・Bグループに分かれ、各グループの総当たりリーグ戦形式が採用されるようになり、この年よりABグループの入替戦が始まったが当初入替戦に出場するチームは1校のみであった

その理由は明白で、当時のABグループ間の実力差が大きすぎてAグループ7位校とBグループ2位校との対戦はいわゆるミスマッチとなってしまう懸念が高かったために関東協会がそのように判断したものと思われる(今の様に2校対戦できるようになったのは平成12年から)


このような歴史的背景のもとで現在の自分たちがあるという認識の中で、先輩方が脈々と築いてきた伝統をしっかりと受け継いで行って欲しいと願っている


2016.11.17
SRFC
GM Taro.S