コラム~成蹊ラグビー
花園ラグビー場
2016/11/22(火) 11:08
『東の秩父宮、西の花園』 言わずとも知られたラグビーの聖地であり、高校生ラガーにとってはあこがれの地である
第1、第2、第3グランドまであり、現在は東大阪市の公共施設として『東大阪市花園ラグビー場』というのが正式名称であるが、往年のラガーマンにとっては『近鉄花園ラグビー場』という方が馴染みがあり、近畿日本鉄道(近鉄)ラグビー部(現:近鉄ライナーズ)の本拠地となっている
その花園ラグビー場は1929年の今日(11月22日)開場され、開場式には秩父宮殿下が勢津子妃殿下と共にご出席されたとのことである
ラグビー場となる前には競馬場であったり、戦時中は陸軍パイロットの初期錬成場、戦後は米軍に接収されアメリカンフットボール場、1953年には花園ゴルフ場として利用されたりしたが、1963年から全国高等学校ラグビーフットボール大会の会場として定着した
通称『花園』では伝説と言われる試合が数多くあるが、その中でも僕の中で最高に思い出に残っている試合は第63回大会(1984年)天理高校vs大分舞鶴高校の決勝戦だ
後半終了間際に天理高校のタッチキックミスを大分舞鶴が左オープンへ展開、左隅にエースWTB田辺君が飛び込み2点差、難しい角度のGKをFB福浦君が決めれば同点となり両校優勝と成る場面、トライ後の興奮が嘘のように静まり返った中で狙ったキックがゴールを逸れたその瞬間に18vs16で試合終了
ユーミンが作詞作曲した『ノーサイド』はこの光景を題材にして作られた
成蹊高校も『花園』とは無縁ではなく過去に4回出場している
初出場は第44回大会(1965年)、1回戦で南四国代表(徳島県)美馬商工に16vs6で敗戦
2回目の出場はその4年後の第48回大会(1969年)、1回戦は佐賀県代表龍谷高校を14vs0で破ったが、2回戦で強豪天理高校に6vs27で敗戦
3回目は第54回大会(1975年)、1回戦で強豪大阪工大高と当るくじ運の悪さで0vs27で初戦敗退
記憶に新しいのは第85回大会(2006年)、1回戦で強豪天理高校と10vs10と引き分けとなるも抽選により次戦に進めなかった
この第85回大会でSHとして出場していた池田元が現在の大学の監督である
成蹊高校が花園に出場しなくなって10年も経った
4回目の出場がその前の出場からすると31年ぶりなので、それから考えると今は『雌伏の時』なのだと思いたい
しかし、先輩方が作られてきた実績と伝統を忘れることなく、次回が31年ぶりとはならないよう少なくても5年に1度くらいは出場できるようになってほしいと心の底から願っている
2016.11.22
SRFC
GM Taro.S
第1、第2、第3グランドまであり、現在は東大阪市の公共施設として『東大阪市花園ラグビー場』というのが正式名称であるが、往年のラガーマンにとっては『近鉄花園ラグビー場』という方が馴染みがあり、近畿日本鉄道(近鉄)ラグビー部(現:近鉄ライナーズ)の本拠地となっている
その花園ラグビー場は1929年の今日(11月22日)開場され、開場式には秩父宮殿下が勢津子妃殿下と共にご出席されたとのことである
ラグビー場となる前には競馬場であったり、戦時中は陸軍パイロットの初期錬成場、戦後は米軍に接収されアメリカンフットボール場、1953年には花園ゴルフ場として利用されたりしたが、1963年から全国高等学校ラグビーフットボール大会の会場として定着した
通称『花園』では伝説と言われる試合が数多くあるが、その中でも僕の中で最高に思い出に残っている試合は第63回大会(1984年)天理高校vs大分舞鶴高校の決勝戦だ
後半終了間際に天理高校のタッチキックミスを大分舞鶴が左オープンへ展開、左隅にエースWTB田辺君が飛び込み2点差、難しい角度のGKをFB福浦君が決めれば同点となり両校優勝と成る場面、トライ後の興奮が嘘のように静まり返った中で狙ったキックがゴールを逸れたその瞬間に18vs16で試合終了
ユーミンが作詞作曲した『ノーサイド』はこの光景を題材にして作られた
成蹊高校も『花園』とは無縁ではなく過去に4回出場している
初出場は第44回大会(1965年)、1回戦で南四国代表(徳島県)美馬商工に16vs6で敗戦
2回目の出場はその4年後の第48回大会(1969年)、1回戦は佐賀県代表龍谷高校を14vs0で破ったが、2回戦で強豪天理高校に6vs27で敗戦
3回目は第54回大会(1975年)、1回戦で強豪大阪工大高と当るくじ運の悪さで0vs27で初戦敗退
記憶に新しいのは第85回大会(2006年)、1回戦で強豪天理高校と10vs10と引き分けとなるも抽選により次戦に進めなかった
この第85回大会でSHとして出場していた池田元が現在の大学の監督である
成蹊高校が花園に出場しなくなって10年も経った
4回目の出場がその前の出場からすると31年ぶりなので、それから考えると今は『雌伏の時』なのだと思いたい
しかし、先輩方が作られてきた実績と伝統を忘れることなく、次回が31年ぶりとはならないよう少なくても5年に1度くらいは出場できるようになってほしいと心の底から願っている
2016.11.22
SRFC
GM Taro.S